何が伝統なのか? 強健術(オーストラリア通信)3

第三回 【何が伝統なのか】

 

オーストラリアの植生は独特!根の立派な巨木。

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 鳥たちの賑やかなお喋りで朝目覚めると、オーストラリアは鳥の楽園だなぁと
つくづく思います。窓の外には南国にいるような色鮮やかな小鳥たちが近くの
家の屋根で飛んだり跳ねたりして遊びながらチチッ!チチッ!と啼き、その声
の響き、キレのある動きを眺めていると、今の生命を生きんとする気合が全身
からが溢れているように見えます。

我々人間も真に健康である時は朝の訪れを全身が喜び、陽の光の美しさを見て
は感激し、肺に入る空気は美味しく、目に映るものが輝いて見え、足取り軽く
これから生きる1日に対してワクワクする気持ちが湧いてくるものですが、そ
のような状態こそ人のあるべき姿であると思います。

さて、肥田式の汲んでいる伝統は何かということが今回のテーマです。 

日本という国では長い間、インド以東の宗教哲学が流入しては束ねられ、層の
厚い土壌に独自の文化が育まれてきました。他の国にあっては一つの宗教や考
え方が入ると、元あったものは捨てられ、破壊され駆逐されるのが常だそうで
すが、極東にあって文化の逃げ場がないからでしょうか?不思議と日本には新
しいものが古いものの上に重なって厚みを増していくのだそうです。言葉ひと
つをとって見ても、ヤマト言葉があり、それに漢字、カタカナと奥行きがあり
、、、。それと同じくこの聖中心道も分厚い土壌を足元に持っています。

 

== 修行の目的 ==

東洋の宗教哲学の根底には、人間が自然または大きな力の一部であり、その法
則性に一体化することを至上とする考え方があります。それゆえ、インド哲学
は梵我一如と言い、神道は神人合一、道教にあっては道(タオ)との一体化、
老荘は恬淡虚無、、といった境地に至るための修行法を伝えてきました。言葉
は違っていても、どれも万物の霊長である人間として最上の生き方、状態を目
指しているわけです。

春充師は、中心力である気合が起こった時には「宇宙の大生命と契合する
(契合:札を合わせたようにぴったり一致すること)と言っておられ、中心道に
よって至る境地が東洋哲学の伝統的理想に違わないことがわかります。その上
で肥田式が革新的であるのは、この理想的心身の状態を科学の言葉で説明して
いることです。春充師は、いわゆる無念無想、虚無の状態を生理学的に脳幹が
思考機能を停止している状態であると云われています。

 

== 気合という手段 ==

こうした理想的境地に至るための手段は、古来様々なものが生み出されて修行
されました。インドの宗教哲学的修行法であるヨーガにおいては神への帰依、
社会奉仕、哲学思索、真言(マントラ)、肉体操作、心理操作等其々の方面か
らのアプローチ方法があり、道教にも金丹や内丹による錬丹があり、仏教の中
でも宗派によって方法が異なります。

春充師はこの鍛錬の実行方法について、「武道の精華(真髄、本質)たる気合
をもって、腰腹同量正中心の鍛錬を行うのである」と言われています。つまり
気合を手段として「正中心(丹田を生理学的・幾何学的に定義した言葉)」を鍛
えることで、精神の働きを止めるに至るというのです。では、この武道の真髄
である「気合」とはどのような手段なのでしょうか?

 近代日本武道の大家は、「心法」をして東洋の修行法の骨子であることを述べ
られております。「心法」は心の操作によって心身を一体とする訓練であり、
古くは心理操作の方面から修行するラージャ・ヨーガがあり、この心の操縦訓
練という概念は仏教に受け継がれ、それが中国を経て日本に入った後、禅や修
験道(神仏道密の流れを汲む)での参禅、山籠りなどの修行法が一流の達人を生
んだことによって身体技能であった武術が、単なる身体の鍛錬ではなく「心」
と「身」をひとつにする道(剣禅一致)、心身統一の技術である気合を持つ武
道に昇華した、と考えられます。つまり、「気合」とは心身統一技術のエッセ
ンスであり、東洋哲学の理想に達するための手段であるのです。この心身一如
の状態を目指す態度は武道に限らず、茶道、芸道など様々な分野に受け継がれ
ました。肥田式強健術においての気合=心身統一は、「肉体の中心と精神の中
心が臍下丹田において一致する」ことであると表現されています。
 

== 心身統一の技法 == 

肥田式において「精神と肉体の中心を丹田で一致させる」ための方法は、どの
ような心身統一の伝統を受け継いでいるのでしょうか。

 精神のコントロールには集中と統一という方法があります。集中は禅定の禅、
またはダーラナ(Dharana)と呼ばれ、一つの対象に長時間意識を集中し留める
こと。対象があちらこちらに移らないように精神のフォーカスをコントロール
することです。

これに対して統一とは、ディヤーナ(Dhyana)で、他の観念によって気が散るこ
とがなく、対象となる一つの観念やイメージが途切れずに流れていること、ま
たは心を静かにして動揺させないこと(禅定の定)です。

春充師は気合を「全精神を、気海丹田に潜めた刹那の勢い」とし、鍛錬時には
「心を平静にして、精神を集注し、呼吸を定むる」と云われています。気合は
精神を丹田(中心)に集中するダーラナであり、心の平静を行う禅定の定、デ
ィヤーナでもあるのです。しかしながら、座禅や瞑想と違うのは、肥田式はこ
うした精神のコントロールを運動を介して訓練するところです。

 

== 精神と肉体の中心を一体としておさめる == 

瞑想や座禅などの修行は主に座った状態で精神をコントロールする訓練を行い
ます。ヨーガでは肉体的訓練は瞑想修行の前段階、準備段階として別に修せら
れており、禅も基本的には呼吸法と坐法がメインとなっていますが、武禅、運
動禅、体育禅と呼ばれる肥田式強健術は、運動神経と呼吸のコントロールとを
通して精神の修練が行われます。

呼吸法のほか、修験道の呪術や気合術、密教のマントラなど、発声という方法
によって呼吸の速さやタイミングの調節を行う運動神経の働きの訓練を顕在意
識、潜在意識のコントロールに役立てることが古くから行われておりますが、
肥田式では姿勢に対する呼吸の調節によって惰性と反動を起こして動作を生み
出します。この姿勢と呼吸のコントロール自体が精神集中と統一の鍛錬である
と同時に、呼吸と姿勢から生み出された運動によって物理的重心を丹田の位置
(正中心)に収めることで、呼吸姿勢動作から生じる腹圧による仙骨神経叢へ
の刺激が中枢神経をコントロールして精神的中心を肉体的中心に一致させると
いう構造の鍛錬となっています。

 

==まとめ==

このように肥田式強健術は、呼吸と運動神経のコントロールによって肉体と
精神の中心の一致を図り、最終的には自然法則との一体化という東洋哲学的
理想を達する手段であることがわかります。さらに東洋哲学、宗教、武道、
心法などの伝統を科学的に理解して方法を示されているという、類稀なる学
びであるのです。となればこの鍛錬を学ぶには、伝統のみならず科学も併せ
て学ぶ必要性があることは明らかであるしょう。

ということで、次回は肥田式を修練する上で、私たちが科学を学ぶ必要性に
ついて考えてみたいと思います!

           fromオーストラリア まい花 記
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