息づかい2

息づかい2

息は自らの心と書くように息は心であり、自分であるということになります。

中心は中なる心が物を具現しております。人間も同じです。心が乱れると肉体が乱れます。悩み、憎しみ、恐怖感があると肉体に異常が出ます。心は波動であり、良い波動は直流ですが、感情の波動はパルス系、破壊波動、感覚波動は交流波動と云われ、起伏があります。この心の波動が細胞にダメージを与え、新陳代謝を狂わせます。

肥田先生は肉体改造をされる時、新陳代謝に目を付けられました。当時は7年で細胞が生まれ変わると医学書に書かれていることに光を見いだし、新陳代謝をベースに運動法を試され、自分の運動法を編み出されました。

新陳代謝の細胞分裂は心の蔵にあると云われております。その為には心臓をより安定して使う為に息づかいに目を向けたのではないかと思います。息の乱れは心の乱れ、心臓の乱れになる。心臓の安定をさせる為に横隔膜に着目されている。心配ごと、悩み、苦しみ等があると横隔膜が上がり、呼吸が肺尖呼吸になり、心臓の動きを乱して行く。内圧がかからない為、新陳代謝に必要な酸素エネルギーの確保ができなくなり、代謝を鈍らせる。それが続くと病気、気の不足が起こる。人はこれを直さず、病院に駆け込む。薬で対処する。

代謝には横隔膜のコントロールが絶対に欠かせない。不随筋である横隔膜を呼吸筋でコントロールさせている。腹は上半身、腰は下半身、これが腰腹同量の鍛錬になる。

肥田先生は鍛錬されていて心拍数が運動しても一定であると著書に書かれている。今まで気づかなかったのですが、これは脳が思考停止状態であるということになる。もしかすると心臓も右寄りになっていたのかもしれない。聖者の心臓は右寄りと聞いたことがある。

運動法も新陳代謝が活発になるように配慮されている。三骨軽打法もその内の一つである。最初と最後に準備運動で使っているが、よくよく思うと中枢神経を活発化させ細胞に酸素を送り、細胞の活性化を計っている。脳神経、脊髄神経、仙骨神経叢の刺激をしている。利動力で行う為、奥深くまで、軽い軽打で神経を刺激できる。

肥田先生は肉体改造を肉体直接改造されたのではなく、中心の調和、心の調和を計り、そこから生まれる中心エネルギーを使って肉体を改造させている。八大要件と云われるものも心と肉体の調和です。

この心身強健術はストレスのかかる現代人にとって有難い鍛錬法である。お金をかけず、時間をかけず、場所を取らず、いつどこでもできる一人鍛錬です。

肥田式と一般の運動の違いは肉体を鍛えるのか?肉体を動かしている心をより強くすることで肉体の鍛錬をするのか?の違いがある。

息づかいで呼吸筋の動きを学ぶのに大切な呼吸操練法がある。この中にある腹胸式呼吸法は最も大切なものである。寝て行う為、余分な所に負担がかからず自然体の息づかいが理解しやすい。

腹胸式の腹式は三法で行うが、その上に五法がある。呼吸筋をぎりぎりまで伸ばす。これをする時、武禅、命がけの鍛錬だということを感じる。その後、心に何とも言えない充足感を感じる。普段呼吸筋を伸ばして使っていないことに気づく。宇宙倫理の書の中に宇宙と波動を合わせる時、自然体休養姿勢でつながると書かれている。呼吸操練は地味な操練法であるが最も大切なものである。肥田式は肉体を使った息の鍛錬であり、心の鍛錬、中心力の鍛錬である。

次の言葉からも肥田式の鍛錬は只の肉体鍛錬ではなく、生命活性法であることがわかります。

中心の鉄扉を開かずして生涯を終わるものは 

      米を抱いて餓死するが如し。

たなか 幽月

息づかい

息づかい

息は自らの心の使い方であり、空気を吸ったり、吐いたりする呼吸法と考え方を異にする。生命のバランスを整えることにある。

肥田式で行う息づかいは生命を生かす息づかいになる。自らの心の息づかいであり、心が息をしているのです。肉体が息をしているのではないのです。中心とは中の心。中心軸は心なのです。

生命を生かす息づかいとは心と肉体のバランスを取ることで新陳代謝を活性化させて行く方法です。肥田先生は幼い頃、カヤ棒と呼ばれ、いつ死んでも不思議でないほど虚弱であり、その病弱な身体を直すために新陳代謝に目を付け、自ら運動法を編み出し大悟徹底までなされた。

一番最初に出された心身強健術の本の冒頭に鍛錬は気合で行うと書かれている。一般に読まれる本の中に気合という言葉が冒頭にでてくるとこれは普通の人がするものではないように感じてしまうが、心と肉体を一体で使って行うと解釈すれば問題はない。大切なものだから冒頭に書かれている。

心と体は一体で動く。意識、心で肉体を動かす。意識の持ち方で細胞に影響を与えてしまう。

心と肉体のバランスが取れている時には細胞分裂は活発になる。意識が下がっている時には細胞分裂は鈍る。そこに不安、悩み、妬み、嫉妬、ストレスがかかると細胞にダメージを与えてしまう為、新陳代謝をより狂わせる。肉体と心が調和されている時、新陳代謝が正常に働く。心が乱れている時、肉体も乱れるということになる。病気は バランスが崩れて新陳代謝が滞り病気になる。気の病と書きますね。

人間は病気になると答えを外に求めてしまいがちになりますが、内に向けなければ根本修正はできない。

新陳代謝が活性化させるということは心に不調和なる心を持ち込まなければ新陳代謝を狂わせることはない。より健康で居られる。バランスを取ることで新陳代謝か活発になる。すべてバランスなのです。

心が不調和で肉体だけを鍛えても効果は薄いということです。

元気って元の気と書きますね。気は心。気心と云いますね。

元気になるには肉体を通して意識的に気を高めなければならない。一時的に良くなってもまた戻ってしまう。すべてのカギは意識にあります。
肥田式は健康体操ではなく生命活性法なのです。

肥田先生が心身強健術と名付けているのは心と肉体のバランスを整えることをおっしゃっておられる。

運動をすれは新陳代謝が高まるかというとそうではない。その人の意識の持ち方で決まってくる。

肥田先生が中心力と云われているものはバランスのことを言っておられます。

新陳代謝を活性化するには運動を積極的に行う。意識圧を下げないで意識で鍛錬すると効果は表れてくる。

一番大切な学び方、肥田先生の肥田式に対する思いを学ばずして技術だけを学ぼうとする。これでは型踊りなのです。肥田式の型には力はありません。生命を活性化させるすばらしい型ですが、それを自分の人生をより豊かにするためには心がなければ人生を生かす型として使えないのです。肥田先生の型の物まねをしても意味がないのです。

息づかいには2つの息づかいがある。吸引と放出の息の使い方です。

息を吸う時、内圧が上がり、自分の中にエネルギーがチャージされる吸引発酵型。

これは人間が自然に行っている息づかいである。

吐き出す時、外気圧より高い内圧の高い空気が放出される。息をすることで周りを清めている。自分が良くなることで周りも良くなる。人を幸せにさせる息づかいである。

これが逆になると周りからエネルギーを奪うことになる。この息の使い方は腐敗の使い方、老化の使い方になる。

今、コロナで不安があると思いますが、意識をコロナに合わせないことです。同じ波動に合わないことです。コロナの感染は自分が呼び込みます。コロナは勝手に入ってきません。呼び込まなければ。

この機会に息を見つめ直して見ては如何でしょうか?

たなか幽月

中心力について

2020.4.16

中心力について

肥田先生は下記の言葉を残しておられる。

「中心の鉄扉を開かずして生涯を終われるものは

米を抱いて餓死するが如し」

キリストも同じような言葉を云われている。

「この世は死人だらけだと」。

何故そのようなことを云われるのだろうか?

肥田式は心身強健術である。心身という意味は心で肉体をコントロールするということである。心が中心力によって肉体を動かす。肉体自身には何の力もない。幾ら肉体を鍛えたとしても心が伴わなければ成果が表れないということになります。肉体は心の表現で悲しければ悲しい表現をするし、楽しければ楽しい表現をする。肉体は心に絶対服従である。肥田式は中心力で行う運動法であるのですが、心で肉体を鍛える運動法なのです。

中心力というのは中の心と書くように独楽の中心棒のようなものです。中心が狂うと独楽の動きが乱れます。人間の健康も中心の心が乱れると肉体が乱れ、病気を引き起こす原因になるということです。病気は気の病と書くように。心の乱れである。

どうして中心のズレが起きるのかというと中心が心ではなく独楽の外側に中心が移ってしまうためである。物質中心の生き方が中心のズレをつくっている。故に独楽の動きが止まってしまう。病気にかかりやすくなる。

現代人は物質に豊かさを求めるため、中心軸をずらした生活をしている。このため病気が増えてくる。肥田式は心を中心に戻すことで肉体を活性化させるこれからの運動法である。

肥田式の動きは中心力10、部分力9の割合で動作をする。この動きで幾ら激しい動きをしても肉体を壊すことは絶対にないと肥田先生はおっしゃっておられる。

この中心力の動きは利動力を産み出し、エネルギーチャージが可能になる。

このエネルギーチャージは新陳代謝を更に活発化させ、細胞に活力を与え、細胞をより精妙化させることができる。肥田先生は自らの細胞を神の細胞に変性させ宇宙力を得たのだと思います。よって神の力、全知全能の力が使えるようになられたのだと思います。

肥田先生が人間は誰でも神の子、神の器であると云われているのは誰にでも備わっている目に見えないエネルギーを使って生きなさいと。言われているように思います。渡り鳥は筋肉鍛錬して何千キロもあの小さな体で飛んでいますか?グライダーは向かい風で風に乗り飛びます。人間は中心力を高め、目に見えない利動力を使い、逆風をエネルギーに変えてグライダーのように飛びなさいと。

 

たなか幽月

肥田式の鍛錬に当たって

肥田式の鍛錬に当たって

肥田式を学ぶに当たって肥田先生はどのように肥田式を作り上げて来られたのかを理解することで今後の学び方が違ってくると思います。

宇宙倫理の書 「宇宙への旅」 「宇宙の最終目的」をダウンロードして参考にして下さい。力は自分で作り出すものではない。身体は宇宙からの受信機であると。

脳幹部の思考停止は受信機を最大に活用できる方法になります。一般の能力開発は外から入れようとしますが、結果的な知識を学んでも役にはたちません。肥田式の学びは外ではなく内に求めて行きます。それを機械的に{虚}にすることで脳力を引出そうとするのが肥田先生が編み出され強健術です。
今まで概念的に虚にするには静かに座ることでしたが、肥田先生は動の中で虚をつくった方が効果が上がることを中心鍛冶法の中で実験をされ、確認をされている。
肥田式が動的禅、武禅ともいわれているのもこのためです。
肥田先生が会得された脳力は肥田先生にだけ備わっているものではなく、人間誰もが持っている力であるということです。
今後の鍛錬にお役立て下さい。

平日の鍛錬日には中心鍛冶法も行ないますので、鉄棒をご持参ください。

宇宙倫理の書は下記からダウンロードできます

 https://www.amazon.co.jp/dp/B07ML43X3H/ref=pe_492632_166382082_TE_M1DP

 

たなか 幽月

有神無我

有神無我

肥田先生の宇宙倫理の著書の中にある言葉が頭をよぎって来る。
あまりに超人すぎて足元にも及びませんが、自分の鍛錬のために
あえて書かせて頂きます。
肥田式の鍛錬は上虚下実の鍛錬にありますが、虚ということについて
肥田先生は次のように書かれております。
 
中略
虚ならざれば、真の真に到り得ず。真の質は即ち真の性である。
虚は即ち凡てにて通ずる。凡ての真は凡ての真なり。
虚ならざれば滞る。滞る時は向上進歩が止む。
虚は一である。一は虚の真である。真は真にして虚なるが故に、真は
只真である。 一つの真に徹すれば、無限永恒の真に連なる。 年去り
年来るも真に離れしものは、浮空の幻華のみ。只法光の実相を提げて、
宇宙の霊玄を印破し得られるべし。
 
如何にして虚により、真を学ばんか?
正しき姿勢による虚実の妙によることをもって最上とする。
正禅の玄機は即ち其の処に潜むものである。
正しき姿勢態型は、解剖学的、幾何学的、生理学的、数学的であって
神経学的、心理学的、精神的心霊的結果を齎すものである。
 
正中心虚によって、虚の虚を致し、全虚純虚聖虚によって虚の虚なる
唯一神を仰ぐべきである。
・『汝我が前の前に我以外、何物も神とすべからず』(申命記五章七)
・『汝、四井なる民の神々に従うべからず』(申命記6章十四)
・『他の神に従いて之を奉ふこと勿れ』(エレミヤ記35章15)
・『汝我が面の前に我以外、何者をも神とすべからず』(出埃乃記二十章三)
総じてを虚にして、只唯一絶対完全神を仰ぎ奉る。
新井奥邃が私の題辞として送られた一句を誌して置きたい。
『有神無我』と、有無の絶妙境は即ち此処にあり。
                                                                                   (聖中心道 No21より)
 
肥田先生の云われる『肉体の物理的重心に、力学的無形の球状緊張を
起こすことによって、脳幹思考中枢の細胞機能を停止状態に置くこと
によって、ダイヤモンドのような清澄な宮殿を造ることができること
を実証された。 すべては虚であり、肥田式の鍛錬の妙味はここにある。
人間は誰もが神の子であるが故に万物の霊長としての能力はすでに
人間一人一人に授けられている。肥田式は機械的に身体を使ってその
能力を引き出すことができる唯一の人間覚醒の鍛錬ということになる。

 

たなか幽月

 

 

 

 

 

千鳥ヶ淵の桜

4月の入学や入社の時期は東京ではお花見の季節でもありますね。
子供の頃からお花見時期は入学シーズンでもあったりで新鮮な気持ちが持てる時期かと思います。
ちょっと外出する機会があり、都内の千鳥ヶ淵の桜を見ることにしました。

 

昔も一度この時期に立ち寄ったこともあるのですが、昔はござなどを敷いて夜桜の時期は花見酒を
多くの人が楽しんでいました。 今はここではそんなことはできないようにコンクリ敷と花壇と
なって座り込むことができないようになっております。

 

ほぼ満開のこの時期、平日ではありましたが大変な人混みでありました。
東京の桜をお楽しみいただければと思います。

 

           (高橋 記)

 

 

 

 

 

 
【この桜は気象庁の基準桜です(靖国神社内にあります)】

 

年頭のご挨拶

年頭のご挨拶

 

新年あけましておめでとうございます。

 

この頃、鍛錬会場の雰囲気が変わってきたように感じます。

虚弱体質で茅棒とあだ名がつけられ、ひ弱な肉体、死を見ること数度という 大病に見舞われ、当時の医学書の中に人間は7年で新しく生まれ変わるという 活字を見つけ、18歳で心身を改造することに決意し、代謝に希望を託し、 西洋の様々な運動と東洋の丹田養生法、武道の気合を融合させ、心身を強健体 に作り上げました。その時の想いが10年でだめなら20年かけても必ず身体を 治して行くという強い覚悟が著書の中に書かれております。実際はわずか2年 で強健体になって行きます。

 

心身改造によって心身とも充実し、明晰な頭脳まで手に入れ、大学も3大学 4学部を同時に首席で卒業されております。大学に行かれる目的は自分のため ではなく、村のために経済も学ぼう、問題が起きた時、法律も知らなくては、 という考え方で行かれます。自分のために大学に行っていない。

 

勉強も真剣に授業に参加しているだけで改めて勉強はされない。試験でも テストに出る問題がわかり。試験でも答案用紙を配り終える頃にはすべて 答えを書き終わっている。このような離れ業を身に付けたからこそ3大学 4学部の同時卒業ができたのだと思います。

 

自分の鍛錬もさることながら病人のために天心療法、強圧微動術という 治療法も本に纏められ、実際に多くの人々を救っております。 私たち 肥田式強健術を志す者は万物の霊長と云われる脳力を引き出し、社会に 還元して行くことが肥田先生に対する礼儀です。

 

肥田式の大きな特徴は中心力から生まれる胆力を使い、神経を覚醒し、 心身を鍛えて行くところにあります。
肥田式で身についてくる能力というのは一般的な能力ではない。その ことを理解した上で鍛練する必要があります。

肥田式鍛錬法は本に纏められ一般に公開されておりますが、その型は 気合を使って行う型で初版の冒頭にも「気合術基礎」と書かれております。 必死の気で行う鍛錬だからこそ人間丸ごと変えることができるのです。 必死の気で鍛錬しても中心力10、部分力9の割合で鍛錬すれば身体を壊す ことは絶対ないと肥田先生は言い切っております。その型は生理解剖に あった自然な動き方だからこそ身体を壊すことはないのです。

鍛錬を続け、丹田思想をさらに発展させ「正中心」と名付け、史上初めて 丹田を合理的に、科学的に解説されている。鍛練を続けて23年目のある晩、 正中心に落節し、これが禅の奥義であり、あらゆる芸事の奥義であることを 体得された。肥田式が万芸の泉であると云われ、芸事の人たちが一目を置くのは丹田を つくる科学的な体系があるからです。

 

健康法から大悟徹底まで幅の広い鍛練法ですが、自分は何を狙って行くのか を再確認し、鍛錬に望んで頂きたい。肥田式は強健体の体系ですが普通の健康法にも大いに活用できます。また 老若男女、足の悪い方でも無理なく続けられるのも魅力です。

参考資料:「超人・肥田春允」

たなか 幽月

【昨年 年末最後の鍛錬会の様子】
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何が伝統なのか? 強健術(オーストラリア通信)3

第三回 【何が伝統なのか】

 

オーストラリアの植生は独特!根の立派な巨木。

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 鳥たちの賑やかなお喋りで朝目覚めると、オーストラリアは鳥の楽園だなぁと
つくづく思います。窓の外には南国にいるような色鮮やかな小鳥たちが近くの
家の屋根で飛んだり跳ねたりして遊びながらチチッ!チチッ!と啼き、その声
の響き、キレのある動きを眺めていると、今の生命を生きんとする気合が全身
からが溢れているように見えます。

我々人間も真に健康である時は朝の訪れを全身が喜び、陽の光の美しさを見て
は感激し、肺に入る空気は美味しく、目に映るものが輝いて見え、足取り軽く
これから生きる1日に対してワクワクする気持ちが湧いてくるものですが、そ
のような状態こそ人のあるべき姿であると思います。

さて、肥田式の汲んでいる伝統は何かということが今回のテーマです。 

日本という国では長い間、インド以東の宗教哲学が流入しては束ねられ、層の
厚い土壌に独自の文化が育まれてきました。他の国にあっては一つの宗教や考
え方が入ると、元あったものは捨てられ、破壊され駆逐されるのが常だそうで
すが、極東にあって文化の逃げ場がないからでしょうか?不思議と日本には新
しいものが古いものの上に重なって厚みを増していくのだそうです。言葉ひと
つをとって見ても、ヤマト言葉があり、それに漢字、カタカナと奥行きがあり
、、、。それと同じくこの聖中心道も分厚い土壌を足元に持っています。

 

== 修行の目的 ==

東洋の宗教哲学の根底には、人間が自然または大きな力の一部であり、その法
則性に一体化することを至上とする考え方があります。それゆえ、インド哲学
は梵我一如と言い、神道は神人合一、道教にあっては道(タオ)との一体化、
老荘は恬淡虚無、、といった境地に至るための修行法を伝えてきました。言葉
は違っていても、どれも万物の霊長である人間として最上の生き方、状態を目
指しているわけです。

春充師は、中心力である気合が起こった時には「宇宙の大生命と契合する
(契合:札を合わせたようにぴったり一致すること)と言っておられ、中心道に
よって至る境地が東洋哲学の伝統的理想に違わないことがわかります。その上
で肥田式が革新的であるのは、この理想的心身の状態を科学の言葉で説明して
いることです。春充師は、いわゆる無念無想、虚無の状態を生理学的に脳幹が
思考機能を停止している状態であると云われています。

 

== 気合という手段 ==

こうした理想的境地に至るための手段は、古来様々なものが生み出されて修行
されました。インドの宗教哲学的修行法であるヨーガにおいては神への帰依、
社会奉仕、哲学思索、真言(マントラ)、肉体操作、心理操作等其々の方面か
らのアプローチ方法があり、道教にも金丹や内丹による錬丹があり、仏教の中
でも宗派によって方法が異なります。

春充師はこの鍛錬の実行方法について、「武道の精華(真髄、本質)たる気合
をもって、腰腹同量正中心の鍛錬を行うのである」と言われています。つまり
気合を手段として「正中心(丹田を生理学的・幾何学的に定義した言葉)」を鍛
えることで、精神の働きを止めるに至るというのです。では、この武道の真髄
である「気合」とはどのような手段なのでしょうか?

 近代日本武道の大家は、「心法」をして東洋の修行法の骨子であることを述べ
られております。「心法」は心の操作によって心身を一体とする訓練であり、
古くは心理操作の方面から修行するラージャ・ヨーガがあり、この心の操縦訓
練という概念は仏教に受け継がれ、それが中国を経て日本に入った後、禅や修
験道(神仏道密の流れを汲む)での参禅、山籠りなどの修行法が一流の達人を生
んだことによって身体技能であった武術が、単なる身体の鍛錬ではなく「心」
と「身」をひとつにする道(剣禅一致)、心身統一の技術である気合を持つ武
道に昇華した、と考えられます。つまり、「気合」とは心身統一技術のエッセ
ンスであり、東洋哲学の理想に達するための手段であるのです。この心身一如
の状態を目指す態度は武道に限らず、茶道、芸道など様々な分野に受け継がれ
ました。肥田式強健術においての気合=心身統一は、「肉体の中心と精神の中
心が臍下丹田において一致する」ことであると表現されています。
 

== 心身統一の技法 == 

肥田式において「精神と肉体の中心を丹田で一致させる」ための方法は、どの
ような心身統一の伝統を受け継いでいるのでしょうか。

 精神のコントロールには集中と統一という方法があります。集中は禅定の禅、
またはダーラナ(Dharana)と呼ばれ、一つの対象に長時間意識を集中し留める
こと。対象があちらこちらに移らないように精神のフォーカスをコントロール
することです。

これに対して統一とは、ディヤーナ(Dhyana)で、他の観念によって気が散るこ
とがなく、対象となる一つの観念やイメージが途切れずに流れていること、ま
たは心を静かにして動揺させないこと(禅定の定)です。

春充師は気合を「全精神を、気海丹田に潜めた刹那の勢い」とし、鍛錬時には
「心を平静にして、精神を集注し、呼吸を定むる」と云われています。気合は
精神を丹田(中心)に集中するダーラナであり、心の平静を行う禅定の定、デ
ィヤーナでもあるのです。しかしながら、座禅や瞑想と違うのは、肥田式はこ
うした精神のコントロールを運動を介して訓練するところです。

 

== 精神と肉体の中心を一体としておさめる == 

瞑想や座禅などの修行は主に座った状態で精神をコントロールする訓練を行い
ます。ヨーガでは肉体的訓練は瞑想修行の前段階、準備段階として別に修せら
れており、禅も基本的には呼吸法と坐法がメインとなっていますが、武禅、運
動禅、体育禅と呼ばれる肥田式強健術は、運動神経と呼吸のコントロールとを
通して精神の修練が行われます。

呼吸法のほか、修験道の呪術や気合術、密教のマントラなど、発声という方法
によって呼吸の速さやタイミングの調節を行う運動神経の働きの訓練を顕在意
識、潜在意識のコントロールに役立てることが古くから行われておりますが、
肥田式では姿勢に対する呼吸の調節によって惰性と反動を起こして動作を生み
出します。この姿勢と呼吸のコントロール自体が精神集中と統一の鍛錬である
と同時に、呼吸と姿勢から生み出された運動によって物理的重心を丹田の位置
(正中心)に収めることで、呼吸姿勢動作から生じる腹圧による仙骨神経叢へ
の刺激が中枢神経をコントロールして精神的中心を肉体的中心に一致させると
いう構造の鍛錬となっています。

 

==まとめ==

このように肥田式強健術は、呼吸と運動神経のコントロールによって肉体と
精神の中心の一致を図り、最終的には自然法則との一体化という東洋哲学的
理想を達する手段であることがわかります。さらに東洋哲学、宗教、武道、
心法などの伝統を科学的に理解して方法を示されているという、類稀なる学
びであるのです。となればこの鍛錬を学ぶには、伝統のみならず科学も併せ
て学ぶ必要性があることは明らかであるしょう。

ということで、次回は肥田式を修練する上で、私たちが科学を学ぶ必要性に
ついて考えてみたいと思います!

           fromオーストラリア まい花 記

伝統とは   強健術(オーストラリア通信)2

第二回 伝統とは!         

夏の到来を前に、百穀を潤す雨が降る季節。シドニーは寒暖の差は激しく
ありませんが 日本と同じように四季の変化が感じられます。春の海は見る
にも美しく、まだ冷たい海水 に思い切って入ると、全身に自然の力の大き
さが感じられます。皆さまはいかがお過ごし でしょうか。

肥田式強健術の素晴らしいところは、場所を選ばず、国を選ばず、季節や
時間を選ばずに
日々続けていくことができることです。今日も気持ち良く
身体を動かして学べる歓びを共に味わいましょう!

 

さて、前回は肥田式強健術を「近代科学に裏打ちされた日本の伝統的気合
による心身鍛錬法」と表現して、東洋的な学びの方法について考えました。
今回からはそのようにして学ばれる 伝統とは一体何なのかについて見てみ
たいと思います。

 

伝統の「統」という字には、古くはたくさんの糸を合わせたもの、まとめ
るという意味があったそうです。身体感覚で伝統という言葉を考えると、
一人の人間が糸をいろいろなところから集めて一つにまとめ、次の世代に
渡し、その人がまた糸をより集めて一つにまとめていくことで前の世代の
ものを引き継ぎながらも全く新しいものを生み出してまた次の世代に伝え
ることになるでしょう。

この「伝統」に対して、「伝承」というのは一本一本の糸。貰ったままを
引継いでいくこと。さながらDNAのようです。伝承が一本一本の染色体
であるならば伝統はたくさんの糸をより合わせたDNAでありそれを体現
している人間そのものであります。

 伝承は伝統に不可欠な物ですが、伝承だけして伝統をしないものはクロー
ンであり、保存という意味では大切ではありますが進化向上というエネル
ギー性に欠けます。試行錯誤によるその時代に合った伝承の取捨選択や統
合というイノベーションが行われるがゆえに、伝統は偉大で尊ばれるので
あり、また、このように大きな可能性を持っているところに人間の一人ひ
とりの素晴らしさがあるのだと思います。

 

伝統ということの意味を踏まえて聖中心道肥田式強健術を修することを考
えてみると、明治
大正昭和という思想的な激動の時代に、国粋に偏ること
なくまた外来思想を崇拝することもなく、古今東西の鍛錬法を真摯に実験
研究し、近現代において心身を一体として最も深く効率的に鍛える方法を
纏め上げられた鍛錬法であることを思えば、一般の人々に認知されている
かどうかに関わらず、
強健術というのはまさに伝統のど真ん中に位置する
学びであると言えるでしょう。

では、この学びが伝える伝統とは一体何なのでしょうか。次回以降、具体
的にこの鍛錬の血肉となったものは何だったのか、様々な要素があるなか
で、肥田春充師が残されたキーワードを中心に考察してみたいと思います!

 

【静謐の中にさざなみの音を響かせるブロンテ・ビーチ】
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【ビーチを囲むようにして聳えるクリフ(崖)】
聳えるクリフ

          fromオーストラリア まい花 記

伝統に学んで日々闊達、人生を面白くしよう! 強健術(オーストラリア通信)1

皆様、ご無沙汰しております!
お元気でいらっしゃいますでしょうか?  まい花です!

こちらは最近すっかり春めいて薫風や春の嵐など季節の移り変わりを感じます。
チェリーブロッサムといって桜の枝などが花屋さんで売られていますが、枝や花の柔らかで
繊細な感じがなく、日本のとはちょっと違うな〜とおもいます。やはり日本の桜は綺麗ですね!
 
【太陽に輝くシドニー湾とオペラハウス】
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【緑一色だったハイド・パークにも春らしい色が】
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最近マッサージセラピストの学校を卒業してゆっくり勉強をする時間がとれるようになったので
再びブログを投稿させていただきました。
 
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「伝統に学んで日々闊達、人生を面白くしよう!強健術」

 

まえがき

肥田式強健術とは何か?と尋ねられたら、
「近代科学に裏打ちされた日本の伝統的気合による心身鍛錬法」———とお答えするのがスッキリするかな
とおもいます。私たちが学んでいる強健術は、日本発祥の心身の鍛錬法である。伝統的技法(気合)を用
いるものである。そして科学をベースにしている。という特色を持ち、それがこの学びを唯一無二のユニ
ークなものにしています。
 
これらの特色を理解することは、鍛錬の本質に触れることを可能にして、更に今生きている日々に活かす
為に役立つはずです。そこで、強健術の鍛錬を自身の人生の糧として行っている皆さまと共に、この
肥田式強健術の肥田式強健術なる要素を紐解いて鍛錬と日々の生命に於ける向上の一助と為すべく、
2016年の末にかけて「伝統に学んで日々闊達、人生を面白くしよう!強健術」を隔週連載したいと思います!
 
 
第一回「学ぶ」とはどういうことか!?
 
肥田式強健術において向上とは「武道の精華たる気合をもって」「腰腹同量正中心の鍛錬」がなされる
ことです。このために「学ぶ」こと、「稽古」すること、「鍛錬」することが必要になります。
今回はこれらの言葉の起源から伝統的な学びの方法である「学」「稽古」「鍛錬」を強健術という文脈で
考えてみましょう。
 
学問というと机の上で書物を読んだり文章を書いたり問題を解いたりするイメージかありますが、学という
漢字は子供に手取り足取りしながら教える形を表していて、古代の中国では詩をうたったり舞ったり身体を
使った模倣による学習を指していました。人は無意識に真似をする習性があるそうで、何かを習得するとき
には必ずマネから入ります。
 
稽古という言葉は昔の事を調べて考えるという意味があり、過去の歴史を学んだりして学問をするという
意味だったのが、日本に定着してから室町時代以降武道や芸能などにおいての練習を指すようになりました。
 
鍛錬という言葉は元は金属を鍛える意味が、稽古と同様に日本に入って武芸などを通じて心身を鍛えて強く
することを指すようになりました。
 
「学ぶ」内容は、まず師匠のマネをすること。狭くは道場において型を習い、師の姿勢と動きを目に焼き付け、
気合の響きと息遣いを感じ、言葉を記憶し、道場の外においては師の生活、生き方、哲学、立ち居振る舞い
から人への接し方まで、どのように人生に強健術を活かしているのかを知るためにこれらも模倣します。
師を身体でなぞることで身体に記憶させ、考えさせます。
 
これはそのまま「稽古」に繋がります。「古(いにしえ)」即ち自分より長く学んでいる師について全身で
「稽(かんがえる)」のです。この「稽古」は身体による模倣に限定されません。もとの意味が学問を示した
ように、今は直接触れることの出来ない先人の残した言葉を書物などから知ること、歴史や科学などこれまでに
集積された人類の智慧を知る行為も大事な稽古の内です。「腰腹同量正中心の鍛錬」とはどういうことなのか?
を色んな角度から調べてみる。さらに進んで、「いにしへ(古)」が「去にし方」、過ぎ去った過去を全て含む
ならば、昨日の自分や、たった今終えた型を省みることまでもが稽古になるでしょう。
 
そして「稽古照今」、昔を知った上で「今」に照らしてかんがえる。肥田式を鍛錬された先人がどのように
生きたかを知って、では今という時代に於いて、自身の人生にどのように活かすか?をかんがえる、
昨日の自分のパフォーマンスがどうであったかを振り返って今日はどうすべきか?をかんがえる材料とするのが
稽古の目的です。その過程で何が本当に継承すべき本質か単なる枝葉なのかを取捨選択して発見していきます。
 
「学ぶ」段階は全てをそっくりマネてみる、能では「無主風」といわれる段階で、その後「稽古照今」を経て
本質を捉え自分のものになったとき、真似ようと意識しないのに師によく「似得て」しまう、本質は同じで
それ以外の部分は自由たり得る「有主風」の段階になります。師の動きをマネしている段階を過ぎて自分の
動きを反省改良していくと、期せずして師の動きと重なる瞬間に出会うことがあります。
 
「稽」という字は軍門に犬の生贄を捧げて神意を量る形を表します。「稽(かんがえ)」る対象は神意、即ち
自然の法則です。先人の中に自然の法則を求めて、稽古を重ねて自然の法則に合致した時、人の動きは本質的に
同じものになってゆくのでしょう。
 
稽古によって本質を摑むことによって「鍛錬」の段階に入り、鍛えるべき本質に焦点を定めてそれをとことん
練り上げていく。ここで言う本質とは、「武道の精華たる気合による腰腹同量正中心の鍛錬」です。
 
ということで早速「学」から始めよう、もしくはもうその段階を通り越して「稽古」「鍛錬」をしているという
方は多くいらっしゃると思うのですが、実は「学」に入るには前段階があります。
 
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孔子は、定められた運命(命)を知り、自分の意思で変えることのできるものとできないものを見極めて心を正しく
使うことによって自分の未来を切り開くことを説きました。この「命」を知るために「学」に励むのですが、
「学」を行うその前に孝弟、謹慎、愛仁という態度で日常の行動ができるようになることが求められました。
これらを噛み砕くと、
 
・親やお世話になった人々の助けになるような行動を具体的に起こすという難しいことを行うことで意思を鍛える(孝)、
 
・学ぶ対象に対して頭を下げ、自分の考えや疑問を挟まず言われたことに素直に従う態度を身につける(弟)、
 
・言葉を軽々しく発しないように抑えつつしんで言葉より行動することに重きをおく(謹)、
 
・自分の本質と対話してその言葉を聞き、目標を定めて一旦言ったことは実現させる誠実さを身につける(慎/信)、
 
・利益にならない瑣末な事柄でも粗末な物でも気にかけて大切に扱い、感謝されてもされなくても憎まれても
できるだけ沢山の人を思い遣って施しをする(愛/仁)。
 
これが出来て初めてその先のことを学ぶ意味がある、というのです。というのも、これらの行動を通して自己の
言動や態度、心の持ち方などを観察、統御する訓練を行うことで日常生活の中で不満、煩悶、驕りや不和などの
否定的な情念が起きるのを防ぎ、学びに必要な健全な心身と豊かな感性を維持する事ができるからなのでしょう。
 
この過程を視覚化すると、「孝弟謹慎愛仁」の行動的修錬を土台として「学」、「稽古」、「鍛錬」を積み重ねる
ピラミッド構造になります。
 
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先人の歩みを観察すると、行動実績が圧倒的に多く、多くの人に与え、森羅万象に広く親しんで、実の鍛錬には
進むほど時間をかけずにより多くの効果を得ています。
 
武士道には儒教の考えが反映されていて、戦前の教育には徳育が含まれていました。こうした学びの過程は、
前の時代に生きていた人々や求めて教養を得た学び人にとっては当たり前だったのかもしれません。
行動力の土台なしに学んでも、積むそばから崩れてしまう、もしくは実社会で役に立たないものになってしまう、
ということを昔の人は知っていたのでしょう。
 
聖中心道はライフ-ロングの長い道のりです。着実に鍛錬をするため、行き詰まりを無くすため、自分に不足して
いるのは何か?を振り返りつつ、底辺にある日常における行動力の養成を基礎として稽古に励み、鍛錬の高みに
登りましょう!
 
 
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<参考文献>
『古代中国の文字から身体感覚で『論語』を読みなおす。』安田登 (春秋社)
『「稽古」及び「練習」の語誌的研究』『「鍛錬」の語誌的研究』南谷直利、北野与一 (北陸大学)