中心力茶道とは

利休百種の冒頭にもお釈迦さんの云われた意味の言葉が書かれている。汝の仏は汝自身なりと云われ、自分自身が仏であると。キリストも同じことを云われている。自分の純真な心を法灯明、自灯明としなさいと。
その道に入らんと思う心こそ
我が身ながらも 師匠なりけり
意識波動の低いものが幾ら学んでも自分の波動以上のことは身につかない。学びには素直な心が大切であると。
仏とは宇宙空間に偏在している空生命であり、キリストはそれを愛と表現し、ブッダは慈悲と云っている。中性バランスのことを云っている。
この中性バランスが生命であり、エネルギーであり、知恵である。中心力を高めることで波動バイブレイションが上がり、知恵が使える。
全ては1つの見えない生命エルギーで万象万物がつながっていることを日常の生活の中で感じ取って行く。これが中心力茶道の目的である。一人一人の中にすべてがある。外を向くと物に囚われ自縛する。人間はこの宇宙の法則の中に存在していることを知る為の現象界である。知ることが解脱であり、悟りであり、昇天である。「難行苦行悟りにあらず」理解力が大切であると。
外に求めることなかれすべては裡にある。学びは外ではなく裡にある。
この世の現象界から学ぶことは結果ではなく原因を理解することである。
生命の力 真善美

形を幾ら綺麗にしても本当の美しさは顕れない。身体を上虚下実で使う時、小手先にならず、作用、反作用の見えないエネルギーを使うことができる。これが中心力であり、この力が使えるようになると悩み、不安を抱え込むことは無くなる。1つの中には善、悪はない。善のみである。不安も恐怖もない。平安があるだけである。中心力を使うことで自分の意識波動が上がり、知恵が使える。外から学ぶものは知識であり、裡から引き出すのはエネルギーであり、知恵である。
全ては青い鳥です。すべてを内に求める。これが誰でも使える知恵であり、エネルギーである。知恵もエネルギーも共有なのであり、内なるインターネットなのである。「想念は実現の母」なのです。想念が全てのものを生み出す原動力であり。こ゚の原動力が自分であるということです。お釈迦さんが云われる「宇宙即我」である。
息づかい

忙しさの中ではこれに気づかない。
茶室は自分の裡にあり

人間は見える世界をあると思い、それに囚われてしまう。不安や恐怖心が起きるのは自分が行っていることが間違っているということである。正しければ不安、恐怖心は起きることはない。現象を直そうとすればするほど深みに入って行く。
現象は結果であり、結果で結果は直らない。自分の裡に向ける時間を持ち、憶念することで原因を探すことができる。すべては裡にあります。
一座建立の濃茶

知恵のあるものの中には争いはない。争いが生じるということは知恵がないということになる。完全の中に不完全は存在しない。
茶花のそぎ落とし

何故、そぎ落とすのか?それは生命と向き合う為でもある。万物の霊長と云われている人間と鉱物、植物、動物を生かしている生命は同じ生命である。花と一体になる。八分咲きの花を選ぶのも生命力を感じる為である。
全ては1つなる生命の現われであり、茶室は1つなる宇宙の相似形でもあり、 現象は1つなる生命の現象であることに気づく。生命があるから人間の形を有している。1人、1人中にある永遠なる生命に気づく。こ゚の生命が我であることに。自分が宇宙力であることに気づき、全知全能の力を使い、人間が永遠なる地上ユートピアをつくる。これが人間の使命である。
人間を生きるのではなく、人間という器を使って宇宙エネルギーを引き込むということである。本来の自分に気づくき、実感し、これを現象界で顕す。地球の波動を上げて行き、地上ユートピアをつくる使命が人間に与えられている。故に人間だけに自由性をが与えられている。観自在、無碍自在の囚われない心が1人、1人の中に宿っており、地上ユートピアは1人、1人が自分の波動を上げることで行う 。波動を上げることで争いは無くなる。すべては裡にある。